2005/8/31   広島から福井まで

                  「まだ夢の中」から、徐々に素顔の日本に




どうして広島?                                   
 ペルーで、日本の都市のどこを知っていますか?と訪ねると、東京の次に広島と答える人は多い。原爆が投下された都市だという認識も意外なほどある。この日、日本に滞在し、この町で人類の悲しい歴史から学べることがあればと、会ではフスティノさんの広島行きを考えた。
 1年前の春、広島のギャラリーで岩国英子は個展を開き、縫部義憲さん美千恵さん夫妻と初めて出会った。ヒデコの陶芸の会心の作「にわとり型逆流式壺」を買っていただいたのだ。
 なんという偶然か、縫部氏は広島大学で日本語教育を専門にされている先生だった。おまけに、後からわかったことだが、ケイコも以前に何冊か、縫部氏の日本語教育の本を専門店で目にとめて購入し読んでいるらしかった。
 それから1年後の今年の春、ヒデコとケイコは旅先の広島でお二人に再会。日本語ボランティアをしているという、おつれあいの美千恵さんも一緒だった。縫部氏はプエンテの会のニューズレター「クスコからの手紙」を読んで、会のあり方に共鳴して、フスティノさんの来日にも、ぜひ協力したいと、まっすぐに伝えられた。
 実は広島には、再三クスコを訪れて、フスティノさんからスペイン語やケチュア語を習うなどの交流を重ねてきた、南家光枝さんもいる。ヒデコもケイコも光枝さんには、クスコで何度か会っていた。
 そこで、縫部さんと光枝さんに独自に会ってもらい、広島での15日間の受け入れについて、話し合ってもらった。
 こうして、3泊ずつ5軒のお宅にホームステイするという、広島滞在の受け入れ態勢の輪郭がほぼ決まってきた。
 広島滞在中の写真は、ヒデコとケイコが把握しきれていないこともあり、日付と若干ずれていることがあるかもしれない。なお、広島での写真は、フスティノさん本人、縫部さん、宮首さん、南家光枝さんが撮ってくれたものである。



独自の取り組みへ                                                 
 その一方で、フスティノさんと、ケイコとヒデコは、7月17日から広島交流会の8月20日まで約1ヶ月、別行動だった。 つまり、フスティノさんと一緒にいない間も、ケイコとヒデコは、プエンテの会の事務局として、ホームステイ先や出迎えたり見送ったりしてくれる人などなどとの連絡につぐ連絡に、遠隔操作でもするかのように、絶えず追いまくられていたのだ。その頃のケイコとヒデコの暮らしといったら、テレビを見る一刻の猶予もない、新聞も読む時間がなく積みあがっていくばかり、という忙しさだった。
 その上、進行形でホームページを作ったり、8月8日から11日は、石川県の能登半島の先にある、輪島市に『ベロ亭やきもの&ペルー民芸キャラバン』で出向いたりも。その時は、二人の生業として、やきものももちろん販売したが、プエンテの会の資金作りのための絵葉書『ペルーの光を探して』やニューズレター『クスコからの手紙』も、グループのメンバーが作った織シオリも並べた。会のリーフレットは様々な人に手渡し、会の説明をしたり、質問に答えたりと。その時点でも、ヒデコはまだフスティノさんと、二日間しか行動を共にしていない状態で、先に彼と会っている人たちがうらやましくなるくらいで、早く会いたい、と口癖のように言っていたものだ。
 こんな地道な活動の積み重ねの果てに、フスティノさんを日本に招待するという今回の活動の意味が徐々に伝わり、その資金も、9月の終わりまでには目標の80万円近くをなんとか集めることができたのだった。
 さて、8月20日以降は、ケイコとヒデコと共に、神戸京都経由で、二人の地元で『ベロ亭』のある、福井県武生市へと滞在場所を移した。9月の最初の2週間はほぼ3人揃って北海道を巡り、フスティノさんと二人が本当に別れるのは9月16日という計画で、約1ヶ月、今度は何かとせわしない、あまりゆっくり観光する暇もない、それでも三人ならではの、舞台がペルーから日本に移っただけ以上の、心おきない日々を送ることになったのだった。
 ちなみに、フスティノさんは9月16日以降は、松本と東京にほぼ1週間滞在した後、ペルーへ帰国、ケイコトとヒデコは、北海道キャラバンを9月末まで二人で続けたのだった。


クスコで広がる感動
 もう一つ、フスティノさんが広島滞在中に事務局が知った、クスコでの出来事を紹介したい。
 8月16日のこと、ヒデコは、深夜自宅で仕事を終えて、いつものようにパソコンに向かっていた。その時間は、いつもクスコでは前日の昼過ぎ、グループのメンバーの誰かが、インターネットカフェか、どこかのオフィスでパソコンに向かっている。こうして、疲労困憊ながらも、やっとパソコンに向かうヒデコとチャットが始まる。同時にメールで話すように会話ができるこの便利なシステム。本当はそんなにつきあわなくともいいのだが、グループのメンバーにとって、日本語でヒデコと話すのが結構「希望」になっていることも知っているヒデコのことだ。辛抱強くいつもつきあってしまう。
 その日は、最近まで日本に出稼ぎに来ていた、ケイコの元生徒であるマリオがチャットに登場してきた。彼は、グループに週1回、日本語を教えにいってくれるようになったという。マリオは、2000年頃の生徒だが、日本やヨーロッパで数年働いて、最近クスコに帰ってみたら、ケイコの生徒がまじめにグループを作って学習を続けていることにびっくりし、ひどく感動したというのだ。こんなことが、本当にあることかと。だから、うれしくて日本語を教えに行きます、というのだ。  彼もまだまだのところがある日本語だが、おばあさんから自然に覚えた日本語だから、ある種の流暢さがあり、日本行きでそれにさらに磨きがかかって、きっとグループの役に立ってもらえることだろう。そう思うと、とてもうれしかった。
サブリーダーのバロイスとラケルにとっても、心強い助け船が現れて、ずいぶん頼りにしているだろう。
 フスティノさんの来日の背景には、こうやっていつも、フスティノさんの留守を守っている、クスコのグループの動きがつながって存在している、という事実。それに常に励まされているのが、フスティノさんであり、ケイコとヒデコなのだ。

 

8月5日
広島着

この日の夕方、フスティノさんは大阪を高速バスで発ち、夜10時半頃、広島のバスターミナルに降りたった。こんなに夜遅くなったというのに、そこには、その日からホームステイする宮首さん夫妻、それに縫部さん夫妻、そして光枝さんが出迎えに来ていた。

これだけの出迎えが揃ったのは、お互い予想外だったようだ。久々に友人に会えてほっとしたせいか、光枝さんとの再会は特に嬉しそうだったとか。バスの降り場が市内に入っていくつかあり、皆、彼がちゃんとにつくか心配したよう。

フスティノさんは車内で、待ち合わせ場所の駅まで着くか、日本語で確認したとか。こういう抜き差しならない時にこそ、日本語が上達するに違いない。写真は、出迎えの人たちとフスティノさん。一番右が光枝さん。撮影は縫部教授。
8月6日
広島
宮首さん宅で。プロの尺八演奏者、久保さんを招いて縫部さん夫妻と光枝さんも一緒に、フスティノさんの歓迎会。自家製野菜も使った料理で歓待された
とか。日本のとうもろこしも味わったよう。

「原爆の日、8月6日は静かに冥福を祈りながら過ごすのが広島式ですが、町中は県外者がたくさん来て盛り上がっているようでした」と、縫部氏からのメール。2分間なら正座できるというフスティノさんも、ちょっとかしこまって、和室で写真におさまる。日本人と違って、足を折ることは人生46年間、ずっとなかったそうだ。

「まさにクスコが我が家に来てくれたよう。彼の持つ気負わない暖かさがつくり出す人と人のつながりが、多くの方が支援されている今回のプロジェクト」と宮首さん。
8月7日
広島
原爆投下60周年のこの日々に、フスティノさんを広島に、と考えたのはケイコだ。大阪のYWCAがちょうど5日に終わったのも偶然だし。写真はホームスティ先の宮首悦子さんと、原爆ドーム前で。

「広島県の名勝縮景園,平和公園,原爆ドーム,国立平和祈念館,原爆資料館に行きました。フスティノさんは,平和祈念館と原爆資料館では,展示物の説明をくいいるように読んでいました。そして,資料館を出た時、原爆のもたらす悲惨さにショックを受け,悲しかったと感想を言ってくれました。また,”戦争には勝者はいない”とも言っておられました。名言だと思います。」(宮首さんより報告)

朝起きて、笑顔でおはようございます、おしゃべりをしている時のやさしさなど、心地よい贈り物を私たちはいただきました」と宮首さん。
8月8日
広島
安芸の宮島に南家光枝さんと。もみじ饅頭、穴子飯、納豆など、なんでもチャレンジのフスティノさん。あんこや納豆は、外国人には敬遠されがちなのだが、フスティノさんは柔軟な姿勢があっていいと、縫部さん。

宮島の厳島神社で、ロープウェイで上がったとき、「大阪は自然がなかったが、広島で自然の中に戻れてすごく嬉しい。」と、光枝さんに言ったとか。宮島に渡るのにも、初めてのフェリー、神社で上がるのにも、初めてのロープウェイを満喫したようだ。

また、鹿や猿が島では自由に生きていて、人間に近づいてくるし、共生関係ができているのに感心したそう。街中の犬や猫の不自由さと対象的だと思ったようだ。光枝さん、クスコにいたとき、ガイドの仕事に興味があり、ガイドをしているフスティノさんに聞くと、「写真がきれいに撮れるところを観光客に言えるのが大事」と言われたとか。広島の観光案内では、逆に光枝さんが、そういったきれいな場所に案内して撮ったのがこの写真なのだろう。
8月9日
広島
「9日は長崎の原爆の日でした。戦争と平和をテーマにしたわけではないのですが、鳴門市のドイツ館を訪問し、第一次世界大戦中に俘虜となったドイツ兵を収容した坂東俘虜収容所跡とドイツ館に行ってきました。その中で捕虜が、自主的に日本語や日本文化を学習する研究会を作って勉強会をしていたところです。妻と南家さんも同行して4人で瀬戸大橋を渡り、遠いし強行軍でしたが、妻の運転で。そこには、マイスナーというドイツ人が作ったテキストが展示されていて、研究も兼ねてコピーさせてもらいました。」と縫部さんから報告。

また、「戦争とともに日本語教育が盛んになってきたこと、戦争と日本語教育は常に結び付けられてきたこと、植民地支配の道具として日本語が国語として強制されたこと、などを忘れてはいけないと学生には常に話します。言葉や文化が異なる人たちが心を通わせることができる外国語教育をどうしたらいいのかを考えています。原爆の日は、人間の尊厳を考えるいい機会です。」とのメールも。

常に人間的な日本語教育を実践なさっている方らしい視点と姿勢に、心打たれる。ちなみに、ケイコが、戦争中の日本語教育をテーマに、数年前書いた論文のタイトルは、『大東亜共栄圏思想を見つめて』だった。こんなところにも、縫部さんとの出会いの妙が潜んでいたのかもしれない。写真はドイツ館前で、縫部さん夫妻と、フスティノさん。
8月10日
広島
フスティノさんはラーメンが大好き。クスコでもよく日本から持って言ったインスタントラーメンをご馳走すると大喜びでした。そのころと大きく違うのは、なんといってもこの箸づかい。

温かい人柄、まじめで親切な性格、誠実な心に接しコミュケーションを楽しんでいます。政治の話、地球温暖化の話、原爆を中心にした戦争と平和の話、日本人論、日本文化の話、など結構難しい話にも加わって、静かに耳を傾け、よく理解しようとしている姿が印象的です」と。また、「酔っ払いが路上に寝ているのをそ知らぬ顔をする日本人に違和感を感じて、なぜ関心を持たないのかしきりと質問があり、自分をふり返るいい対話になりました。人間の温かい心、人への配慮、人とのつながりを失わないようにしようと共感した日でした」と縫部さんは滞在記録ノートにかかれている。

また、「広島もかなり暑くてフスティノさんは少々ばて気味ですが、大丈夫、大丈夫と元気な様子を見せてくれています。10日は疲れをいやすために、夕方まで家の中でのんびりしていました。夕方雨が止んだので、広島市内を見渡せるところに行きたいと言いますから、市内で一番高い黄金山に車で登り、瀬戸内海、夕日、市内を一望できるスポットから景色を堪能してもらいました。

その後で、彼の希望で広島風お好み焼きを食べに行きました。一番おいしいと私たちが自信をもっている『みっちゃん』に行きました。ボリュームがありましたから、お腹が一杯、とギブアップ寸前でした。広島風お好み焼きの歴史、広島が原爆被害から立ち直るための生活から生まれたいきさつをお話ししたら、とても興味を持っていました。」とか。
8月11日
広島
写真は前夜『みっちゃん』で広島焼きを食べた時の様子。奥は縫部美千恵さん。

さて、11日は、昼前にすごい暑さの中、田中さん宅に引越し。フスティノさんは広島滞在の間、三日ごとの移動を、ヒデコとの電話でも「ヒッコシ、ヒッコシ」と言っていたものでした。スーツケースなど荷物も多いし、それはまさに、引越しだったのでしょう。

夕方、田中美智子さんと海の見える公園経由で、買い物にスーパーへ。買い物した物も率先して持ち、車のドアをあけ、というフスティノさんに美智子さんは感心した様子。クスコでのいつものフスティノさんの様子を、ケイコとヒデコは思い出した。

このホームステイは、美智子さんがまず引き受けて、家族が協力してくれるか心配だったけれど、全面的に家族中で引き受けてくれて、彼女もほっとしたとか。
8月12日
広島
どうしようというほどの暑さで、少しでも涼しいだろうと、広島の山奥のスキー場の隣にあるウッドワン美術館へホストファミリーの田中さんと共に。道中の山間地帯、緑におおわれた木々を楽しんだようだ。気に入った途中の景色に、車を止めて写真を撮るほどだったとか。

外出時も、手帳に何か書いていたりで、フスティノさんの勉強熱心さには、つくづく感心させられたという田中さん。日本語もとてもうまく、意思の疎通もすごくできて、楽だったという。
8月13日
広島
非常な暑さだったというのに、広島城で鎧兜に身を固め、「これからいくさに行きます」とうれしそうなフスティノさん。ペルーでもNHKの時代劇は大人気。ケーブルテレビで日本の番組が見られますから。

その一方で、朝に夕に部屋で日本語の勉強にも熱心とか。食事時には、田中家の皆さんからの質問攻めに、日本語のレベルが上がったような気がします、と田中さん。「もったいない」などの知らない言葉の説明に田中さんも困って、英語でも説明したり、日本語の難しさを痛感したそう。

野球の説明も、フスティノさんに求められて、高校野球でゲームのやり方を話し野球解説までしたとか。サッカーはもちろん大好きだが、野球は、この日入門したフスティノさん。夜はてんぷらを食べに行ったそう。
8月14日
広島
宮首さんと田中さんは,縫部さんの知り合いだが、この日、フスティノさんが引越しした岩田さんは、南家光枝さんの知り合いだ。おつれあいと光枝さんが同じ職場とか。

また、岩田さん宅では、過去に百人以上の外国人をホームステイで受け入れていて、そのことを覚えていた光枝さんが声をかけたとか。もう別のところに住んでいる娘さん二人も、フスティノさんが来るというので、はるばる駆けつけてくれた。娘さんのひとりが連れてきた孫のゆりちゃんが、最初泣いていたのが、いつの間にか「いたずらのもてなし」をしていたのが、岩田家一番のもてなしとして覚えていてほしい、と娘さんの一人。

この日は一日ゆっくりしていたそうだ。フスティノさんが田中さんにご馳走になった寿司。歓待続き。
8月15日
広島
どこに行った、何を食べた、と尋ねると、広島の名所や名物は網羅済みのこととわかった岩田さん。そこで、この日は、岩田さんの実家のある福山まで、岩田さん夫妻、娘さん二人、そしてお孫さんまで含めて、皆で花火大会を見に行ったそうだ。12000発くらいが上がり続けて、見飽きるほど見続けて、なんと広島への帰宅は、午前2時すぎだったとか。

帰りは、ゆりちゃんをずっと抱っこして家まで連れて帰ったというフスティノさん、彼らしいなあ。

フスティノさんは、礼儀正しくて、やさしい人で安心して交流することができました、と岩田さん。もともと外国人には慣れていて、日本語が話せようと話せまいと、ということだったらしいが、やはり話せるのなら気軽に受け入れられると思ったそうだ。
8月16日
岩国
フスティノさんが有名なところに行きたいと言うので、少し足を伸ばして、岩国市の錦帯橋まで、南家光枝さんと、なんとJRで出かける。錦帯橋はどこか懐かしく郷愁をそそるという点で、クスコに共通しているのではないかと光枝さん。

彼女が運転に自信がなくて電車にしたようだが、そんな小旅行もまた良かったという。橋の下では河に入り、なにやら石ころを探したリ、水遊びに興じたというフスティノさん。いつも元気ですね。

夜は夜で、ペルーに関心のある光枝さんの友人も加わって、お好み焼きを食べに。それから、ペルーの日系人がやっている『クスコカフェ』で、クスケーニャという、クスコ独特のビールも飲んでご満悦だったとか。岩田さんに迎えに来てもらったのは、ずいぶん夜遅くだったそうだ。
8月17日広島
前の晩、光枝さんと広島焼きを食べに行った時の写真。ウチワをもっている光枝さん、フスティノさんとこれを食べるのが一番楽しみだったそうです。

何しろ、光枝さんは、フスティノさんから、日本に来るのが夢、とよく聞いていて、でも、どうしたらいいかはわからず、まさかそれがかなうとは思わなかったとか。ケチュア語の先生の免許を生かして、東京のケチュア語の協会に話をつけられないものか、と思ったりはしていたとか。

両親が自営業でホームステイは無理だったが、鳴門、宮島、岩国と、フスティノさんと積極的に行動を共にし、楽しんだ彼女だ。

17日は、唯一残っていた観光ポイントである『ガラスの里』に、岩田さんと昼から夕方に。また、孫のゆりちゃんの足型を取るのも手伝ったという。
8月18日
広島
ホストファミリーの方井さんと湯来町の神楽を見に。
なかなか見れない貴重な体験をここでも。ヒデコが電話を入れると、ちょうど神楽の最中で音がすごかったものだ

方井さん曰く「日本もペルーも同じ人が住んでいることをつくづく思う。観光地に行くなど、ここでは何もできなかったけれど、でも日本人の一部のありようを見てもらえたと思う」。

方井さんを、急きょ紹介してくれたのは、ケイコとヒデコの知り合いの宇野淳子さん。広島の13泊目と14泊目、空きができた分を補ってくれたのだ。
20日の交流会には、方井さんも宇野さんも、都合が悪くて来られなかったのは、とても残念だった。
8月19日
広島
方井さんは田舎で、現在は炭焼きをしているという。以前は、ペルーに頻繁に仕事で通っていたとか。方井さんがフスティノさんを、ヒデコとケイコのいる宇野さん宅に送ってきた20日の朝、ひととき話しただけで、方井さんとヒデコとケイコの共通の友人がペルーにいるらしいとわかったものだ。

また、息子さんがペルーの民芸品の店を引き継いでやっているとか。縫部氏の同僚が炭焼き仲間で、縫部美千代さんの知り合いが息子さんの店に勤めているなど、意外なところで関係者はつながっているようで、不思議な気がした。

写真は、方井さんのお連れ合いと湯来町で。
缶ビールをお土産にもらったそうです。
8月20日
広島
プエンテの会の「広島交流会」を南家光枝さん宅の広い部屋で。光枝さんのお父さんの厚意だ。

広島のホストファミリーの宮首さん夫妻、縫部さん夫妻、田中さん夫妻、岩田さん、それに遅れて支援者の西塔文子さん、そして福井から駆けつけたケイコ、ヒデコも参加した。

転々と5軒にホームステイした後だけに、フスティノさんは「みんな家族です」と言う。フスティノさんはどうやら広島弁に少し訛っているようだ。そして、「どこでも歓待された広島での日々。まだ日本にいることが信じられない。大統領でもペルーから来たような、ビップ扱いの毎日でした」と。

最初、まわった順にホームステイの内容を話す。

その後、クスコのグループの一人一人の大きな写真を前に、メンバー紹介をフスティノさんがゆっくり日本語で。

縫部さん光枝さん西塔さん以外は、プエンテの会がフスティノさんを日本に招待した背景をほとんど知らない人たちだけに、フスティノさんの話、ケイコとヒデコの話に少しでも、クスコと日本での会の活動の意味が伝わったとしたら、ケイコとヒデコが福井からはるばる広島まで出向いた甲斐もあるものだが、どうだっただろうか。

少しだけ残っていた岩田さんは、しきりと、「今日話を聞けて良かった。今までは何も知らなかった」と言っていたが。

会の後は、西塔さんとファミレスで二次会。「フスティノさんが言っていた『友情』という意味をよく考えてみたい」と西塔さん。他の人たちはさっと帰ってちょっとさびしい。

夜は、『からっぽ工房』の宇野淳子さんのお宅に三人で、広島最後の一泊。フスティノさんにベッドを空けて、宇野さんはシュラフで眠る。ヒデコとケイコより年上なのに、さすがもと山岳部。ヒデコとケイコは布団で就寝。
8月21日
神戸
バスターミナルまで宇野さんに見送られ、広島から高速バスで3時間半、ケイコ、ヒデコと共に神戸の旦保さと子さん宅に移動。

日本の高速バスもいろいろあって、比較的古めかしく高級感のない、二人がけのバスに、ケイコ、ヒデコは、ちょっとペルーに近いかな、と妙な親近感。

これから数日は、ヒデコとケイコのファミリーめぐりコースといったところだ。クスコから日本にそのまま移ったような三人の旅が始まった。道中ソフトクリームを楽しんだりも

ケイコの息子の空(から・中央)と、さと子さん(左端)は、かつてケイコたちとクスコに住んでいて、家族ぐるみでおつきあいしていたので、フスティノさんとは仲良し。空は、日曜ごとにフスティノさんや息子のロベルトと共に、サッカーをすることもあった。

さと子さんの隣りは、三宮の野外ライブに来て、急きょここまで足を伸ばした、ケイコの娘の野央(のえ)だ。皆でさと子さん手作りの料理を囲む。
8月22日
神戸
「自転車乗れる?」とさと子さん。
「乗ってみます。子供のとき以来、乗っていませんが」とフスティノさん。なんでもチャレンジだ。

自転車なら15分ほどで行ける、神戸の兵庫区にある夢野地域生活支援センターに空、さと子さんの案内で訪問、そこでは、かつてJICAでメキシコに派遣されたことのある畑さん(写真左)が、幸いスペイン語が話せて、スペイン語で精神障害者の支援について親身に説明してくれた。フスティノさんも、クスコで精神障害者について悩むことが多いので、一生懸命説明を聞く。

その後は、神戸の公設市場に行き三人で串かつを食べる。

ペルーの大衆的な市場を日常的に利用していた空とさと子さんは、是非神戸にもあるそんな市場を見せたいと案内したそうだ。さと子さんと空は滞在記録ノートに、「フスティノさんと日常生活を日本でできた」「日常生活の中で共にまた出会えた」と、強調している。また、さと子さんは、「そろそろ夢から覚めて、現実と混ざって」とも書いている。
8月23日
京都
今日は京都のヒデコの娘の八重宅泊。日本の普通の暮らしを勉強すると、食後のかたずけを頑張るフスティノさん。「もう、ビップは終わりです」と。

昼間は、祇園、伏見稲荷などに、京都在住で、それなり京都に詳しい、ヒデコの双子の娘、八重と葉菜と。

フスティノさんは、伏見の伏の漢字がYWCAで勉強した自分の名前の当て字と同じ文字だと気づいて言う。

この日、二人から覚えた若者日本語は、値切る、試食、ヘコム,ビミョウ、だそうです。改めて、日本語の幅広さを思わされますよね。八重もていねいに、あれこれ例を出して説明したり。

この日、別行動したヒデコとケイコは、実はフスティノさんにプレゼントするために、ちょっと若向けのTシャツを2枚、足を棒にして捜しまわって購入。さと子さんも八重も、フスティノさんの格好が、あまりにもサラリーマン風オジサンスタイルであることが気にかかり、何とかならないかと、ケイコたちとそれとなく話し合った結果だった。25日の写真で着ているのは、そのうちの一枚。ずっと若く、ラフで楽しい感じでしょう!

8月24日
京都
写真は前日の京都巡りの後、双子の八重と葉菜とヒデコの三人でちょっといっぱいのとき。竹筒からというのが情緒があって、フスティノさんも初体験。

さて、この日は半日かけて、京都の八重宅から、福井県武生市にある「ベロ亭」まで、軽のジープ、ジムニーで、ヒデコ、ケイコ、フスティノさんの三人でドライブ

フスティノさんは広い助手席だけでなく、狭い後部座席にも座り、ヒデコとケイコは運転を交代もし、普通の家族のように、三人で移動。琵琶湖畔では、眺めの良い所に車を停めて一休みしたり、少々普段よりゆっくりする。

ケイコがごく普通に運転に向かう様子が、思いがけなかったフスティノさん。これで、「センセー」のイメージが、少しは広がったのだろうか。ヒデコもケイコも、フスティノさんと、こうやって当たり前によく慣れた道をドライブしていること、「ベロ亭」に向かっていることが、どこかおぼつかない不思議な思いだ。
8月25日
福井
来日してほぼ1ヵ月半経ったフスティノさんがとうとう、プエンテの会の事務局があり、ヒデコとケイコの住まいもある「ベロ亭」に到着した。

フスティノさんの日本語は、クスコで会っていた頃よりだいぶ流暢、アクセントも少し自然になってきている。日本語の海の中の、日本語のシャワーの成果が出ているよう。

この日は昼過ぎ、札幌の9月4日のイベントに備えて、2時間ほど一人で集中して、クスコのグループのメンバー紹介の作文に当てるフスティノさん。広島ではちょっとつたない面もあったので、ケイコが勧めたのだ。時々、ケイコがチェック。

夕方からは、一緒にスーパーへ。これまた、妙な感じ。きわめて普通の日常に、いつもならクスコにいるはずの人が、同行しているのが不思議。

夜、北海道からの帰路、敦賀についたフェリー経由で、岐阜の赤沢ヒロ子さんが泊まりに来る。支援者でもある赤沢さんは、フスティノさんの人柄の静けさが心にしみたとか。

赤沢さんの車と三人が落ち合ったのは、なんと、フスティノさんがクスコのグループ一人一人のプレゼントを買うための下見をしていた百円ショップであった。翌日、五十人分程、こまかくこまかく買い物したフスティノさんだ。
8月26日
福井
福井県武生市の見所は?まず4軒ほどのブラジル関連の店があること。その1軒プラスパミートへ。

前日から、他の店もフスティノさんと探索し、在日日系ブラジル人と話したりして、どこで、ブラジル料理を食べるか検討しておいた。プラスパミートは、小さなマーケット部分もあって、ペルーの名物インカコーラなども売っている。

食堂は、ご飯やスープがおかわり自由なので、フスティノさんは昨夜からここに決めていた。そのご飯を一口口にしたときの顔ったら!満面の笑み!そうなのです。塩とにんにくであらかじめ味付けられたご飯は、母国ペルーの味だったのです。

私たちがペルーで日本の米を食べられることは少ないですが、ほっこりたけたコシヒカリなどを、私たちがペルーで口にした時と同じなのでしょう。こういうわけで、今日は3人で昼ごはんは、ブラジル料理を食べました。

その後、『ラピュタ』の井上さんと、来日後初めての温泉体験。子供のときから、個室でだけシャワーを浴びていて、人前で脱いで入浴する文化はペルーにはなく、どんなだったのでしょう。

井上さんは、ロッカーの鍵のかけ方、湯船のつかり方などひとつひとつ教示したとか。42度の風呂に入り、水風呂に。また、42度の風呂、水風呂と交互に入っていたそう。

日本に来てからホームステイ先で浴びていたシャワーは、初日以外は、実はずっと『水』を使っていたそうです。湯をかけるのは気持ち悪くなるとのこと。クスコで、気温0度でも水シャワーが気持ちよいと、妊婦の女性さえ言うのですから、互いの違いを理解しあうのは本当に大変です。

写真下は、井上さんと武生の街中を歩くフスティノさん。「素直に武生で新しい経験に感心、感動されて、私が当たり前と思っていた事でも、あらためてそういう見方考え方があるのか、と気づかせてくれました。」と、滞在記録ノートに井上さん。
8月27日
福井
武生国際音楽祭の前夜祭にペルーのフォルクローレのグループ、ケルマントゥが出演することから、武生のサルサグループの玉木さんに声をかけてもらって、フスティノさんとケイコは、前夜祭の前の午後のアトラクションの間で、クスコの活動のアピールをすることができた。

日本語とスペイン語で壇上で話すと、フスティノさんと握手したがるおばあさんもいたり。前のほうの席にいた音楽祭関係者も、関心を持って積極的に千円札を出してくれたりで、思いもかけず、あっという間に1万2千円程が集まった

その後、玉木さんが指導するサルサをフスティノさんと共に一緒に踊り、おおいに盛り上がった後、今立町のホストファミリーの細井えい子さんと引き継ぐ。フスティノさんは、フォルクローレを聞いた後、ソセゴという別のブラジルレストランに、えい子さんに連れられて行ったという。
8月28日 えい子さんの息子さんは、クスコのグループにも訪ねていて、スペイン語が達者なこともあり、若いメンバーとずいぶん親しくなったようだ。今回も会えるかと思っていたが、用事で県外にいて残念。

さて、この日はえい子さんと近郊の町で、バーベキューを楽しむ。ビールもだいぶ飲む。その後そば道場でそば打ち、もちつき体験をし、試食もしたとのこと。

つり橋のかずら橋も途中まで渡ったが、前の小さな子どもがあまりに泣くので引き返したとか。

水車の前で記念撮影をした後、能面美術館を見学。夕方は1時間ほど昼寝。夕食の後、夜、細井氏お気に入りの居酒屋花柳に連れていかれ、またまたビール、焼酎、日本酒と飲む。近郊でたっぷり、可能な限りの楽しみを堪能したという感じの一日だ。
8月29日 細井えい子さんと今立町の和紙の里で紙すき体験、漆工房で手鏡の研ぎ出し体験などを楽しむ。この鏡は、フスティノさんの奥さんのベルタさんへの土産にするそうだ。

えい子さんの義父は94歳のアーティストでフスティノさんに作品の写真集などをプレゼントする。フスティノさんは彼に会えてよかったと言っていた。

えい子さんは、クスコのグループのメンバー宛に小さなプレゼントも渡した。

夜はえい子さんとケイコ、ヒデコで、鯖江でペルー人のノラ・マルティネスさん(リマ出身)がやっているスペイン語クラスに少し顔を出す。フスティノさんも会話練習に加わり、メンバーは思いがけないスペイン語話者の訪問を楽しんだ様子だ。

ノラさんは『クスコからの手紙』の原稿のスペイン語部分のテープ起こしをしてくれたこともある人。フスティノさんとは、ほとんど日本語でやり取りしているので、スペイン語クラスでスペイン語を話す彼が、むしろ新鮮で気持ちよかった。
8月30日
北海道への出発に向けて、準備がまだまだ残っていて時間がなくてはらはらもののケイコとヒデコだが、やはりいろいろ案内したいと、決心してフスティノさんと出発。

越前陶芸村で焼き物を見て、その価格の高さに驚きを示す。ペルーではやきものは10円から300円ほどの価格が常、どうしてこんなに高いのか不思議そう。

その後ケイコとヒデコと越前海岸へ。「日本海を触りました」とフスティノさん。ただし、いつもなら行く絶景の方までは足を伸ばさない。一秒一刻を争う中での観光は、疲れもあるし心もとない。

そこで、午後からは一緒に、翌日から出発する北海道行きの準備。「ベロ亭やきものキャラバン」のワゴン車ハイエースに、やきものを積み込むのを手伝ってもらう。とても助かる。ヒデコに「ヒデコさんの仕事はとても大変な仕事ですね]とフスティノさん。二人の暮らし方生き方をかみしめているようだ。

どんなに忙しくとも、どんなに深夜や明け方であろうと、クスコのグループのメンバーからのパソコンのチャットには、できるだけ応じているヒデコは、彼のその言葉に、自分たちの努力と姿勢が本当に伝わったのだという思いがあふれて泣きそうになる。

ともかく、二人は二人で、早くフスティノさんと心からゆっくりしたいばかり。北海道での休日が楽しみ。
8月31日 これは模型だが、この新日本海フェリーで、ベロ亭から車で1時間ほどの敦賀港から北海道の苫小牧港に深夜、いよいよ出発したのがこの日。

フスティノさんがベロ亭にいたのは、ほんの1週間弱、いよいよ二人の住処を離れるという時、「こんどはいつかな。また来たい。また来たい」といかにも名残惜しそうなフスティノさん。多分2度とそれはないと知りつつか。

ベロ亭では食事の後片付けの洗い物は、フスティノさん担当。自分の洗濯物も率先して自分でして、暇があれば日本語の自習に集中、忙しいキャラバンの準備の続くただ中、ごくごく普通の暮らしを共にしました。

神戸、京都とベロ亭ファミリーと出会いつつ、いつの間にか、「まだ夢の中」とは言わなくなったフスティノさん。日常を共にすることを通して、リアルな日本にも徐々に触れ始めたということかなあ。観光三昧は疲れる事もあるようで、あと3週間は、素顔の日本をもっともっと知ってほしい、とつくづく思う二人でした。


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