プエンテの会
グループがんばろう
の始まり

プエンテPUENTってスペイン語で「掛け橋」っていう意味。ベロ亭の米谷恵子がペルーのクスコで2000年8月5日、日本語教室の生徒と開いた“クスコと日本の友情の掛け橋“フェスティバルPente de Amistad からとったもの。

クスコでどうして日本語が必要なの?

南米大陸のペルーのアンデス山中にあるインカ帝国の古都クスコは世界遺産のマチュピチュなどの遺跡を控えた世界的な観光都市。年間数千人という日本人観光客とのふれあいでは、片言から上級レベルまで、様々な人々が日本語を必要としています。民芸品店の売り子や両替商から、ホテルやレストラン、旅行会社や空港の従業員、観光学科の大学生や観光ガイドまで様々です。
 また「途上国」として、戦後50年で経済大国に発展した日本から多くを学びたいと、日本で技術研修を望む人々もいる。
 それに、スペイン語のほかにケチュア語も話す人がほとんどという、先住民色の強いクスコでは、日本への民族的親近感も大きい。一方、移民百年の歴史を持つ日系社会の存在や、日本への出稼ぎの背景も、日本をより身近なものにしています。

               
それは地球の約束から始まった
2000年9月、日本語教師米谷恵子がクスコの空港を発つ別れ際、自主学習グループのリーダー、フスティノは日本語で、
「センセイカエッテキテクダサイ」とまっすぐに投げかけました。
それはまぎれもなく、ひとつの
約束の始まりでした。日本から遠く離れた、地球の反対側の人々との・・・。
れまでの1年数ヶ月間、最初の米谷のクスコ行の機会を作った団体は、3ヶ月目には給料を払わなくなってしまったし、後半の1年弱、個人の教室として日本の有志の後押しだけでつづけたクラスでは、生徒の半分が安い授業料さえ払えず、「第三世界」ペルーで、コトをすすめようとする時の経済的困難さを、まさに身をもって体験した米谷でした。
ある時点など、クラスの8人の半分4人に、クラスの助手や机といす作りなど、授業料に変わる仕事を頼んだり、ある時は、生徒たちと資金集めをかねた”日本とクスコの友情の橋”フェスティバルをついに開いたりでした。
そうやって一人一人が自己の責任において学べるよう肩を押しつづける試行錯誤は、米谷が経済的限界でついに日本に帰国した後も、生徒たちでクラスの再開を積極的の持とうと、自主学習グループを結成するまでに成長をとげたのです。


  
エンパワーメントとしての日本語の自主学習グループ
クスコを去る間際、米谷と生徒たちは、一体何のために日本語を学ぶのか、を徹底して話し合いました。世界的な観光都市での日本語学習の具体的な必要のみならず、彼らにぬきがたくある「先進国」の豊かさへのあこがれと夢を、とことん洗い出すことなくしては、米谷と生徒達が、日本語学習という共通の希望に向けて、エンパワーメントしながら人間として力をつけ、対等な一歩を踏み出すことはなかったでしょう。
そうして、2000年12月、クスコの彼らを支援するために、小さな国際協力NGO”プエンテの会”(当時はクスコ日本語基金)は、日本で産声を上げました。
以後、クスコのグループでは、米谷のフォローが実って、リーダーたちが日本語能力試験4級に合格したり、独自にひらがなとカタカナのスペイン語話者向けの図案化を試みるなど、いくつかの目立った動きもありました。
3年後の2003年6月、3年ぶりにクスコでクラス再開を果たした米谷は、同行した岩国英子とグループのメンバーと共に、20数回のミーティングを重ねて、アンケートによるグループの意識調査、三つの目標と14の規則作りなどに取り組みました。
こうしてクスコの”自主学習グループがんばろう”はJICAなどの日本のODAの教師派遣が途絶えていた「危険国」ペルーで、一人の日本人教師が始めた小さなNGO”プエンテの会”と共に、本格的に歩みだしたのです。

ホームへ