プエンテの会が応援する

クスコの日本語自主学習グループ
がんばろう
          のようす

みっつの大きな目標
 
 ひとつめ 友情 

日本語学習を通して、クスコと日本の友情の橋を実現します。
「支援する側・支援される側」の枠を越えて、自立した人間同士としてのたしかな絆を結んでいくのは、大変だけどやりがいのあることです。

 ふたつめ チームワーク

責任あるグループ活動を通して、互いの約束事を守り、コミュニケーションを大切にして、グループのチームワークをたもちます
「途上国」ペルーで生き抜くのに必死な人々は、つい目先の利益にとらわれがち。自分の問題を意識化できれば、共通の未来が見えてきます。


 みっつめ 知恵と力とそのこころ

目標や理想を掲げるだけでなく、その実現のためには、グループの一人一人が最大限の知恵と力を尽くします。
うつくしいことばでだまされず、だまされもせずに、真実をみきわめながら、大切なことを少しずつ実行するのが「地球人」としての第一歩です。



その前史
日本語教師、米谷恵子は1999年8月から2000年9月まで、南米ペルーの古都クスコで日本語を教えてきました。
当初はある団体招きで、クスコで日本語を教えていたのですが、団体の教室経営の経済的破綻に伴う様々な摩擦のはて退職し、2000年1月から独立して個人で日本語教室を始めました。

独立した教室でも  生徒とのすったもんだ

今度は信頼していたはずの生徒たちの一部の、授業料未払いにすったもんだ翻弄されることになりました。教材はもちろん持ち出し、授業料を払えない生徒のためには家でできる仕事・・・例えば教室の助手や、同行していた息子夫婦に生まれた孫の世話、一時期ホームステイしていた日本の若者のスペイン語のフォロー、ガラス拭きなどの掃除、クラスに必要な机や椅子などの家具造りなど・・・を提供したりと、先進国の日本語教室では考えられない、怒ったり笑ったりの苦労を様々に体験しました。クラスの8人のうち、その半分の4人が授業料にかわるこういった労働力の提供者だったこともあります。
スペイン語を話すペルー人にとって、ルーツも文字も文法もボキャブラリーもヨーロッパのことばとは全てが異なる日本語は、ことに入門期においてはけしてやさしい外国語とはいえません。その上、生徒の一人一人が抱える経済的な困難さも手伝って、意欲がありながらもクラスを離れていく生徒はかなりの数になりました。私は1年間に日本語の入門コース五つ、集中コース二つ、観光のためのコースを一つ持ちましたが、延べ40人を数えたこれらの生徒達の胸の中で、沢山の夢と希望のあかりが経済的限界という壁にはばまれ、中途でしぼみたち消えていくのを、何度も目の当たりにしました。                                                  

日本からの個人的応援だけを頼りに  

このような状況の中でも、ケイコが1年もの間クスコで日本語教室を続けられたのは、日本の友人や仲間の、経済的物質的精神的応援があったからでした。このような微力な日本教師が、クスコまでの渡航費を捻出し、クスコでは教室のために一室を借り足し、机や椅子を調達し、より充実したクラスのためにテレビやビデオまで購入できたのは、それぞれの日本の暮らしの中から一万円二万円、時には数万円を悩み迷いつつ、決断して送ってきてくれた日本の友人達のあつい応援があったからでした。そうして、私の生活費の不足も遅れ遅れながらも、なんとか補ってきたのです。

一時帰国を決意・・・・・・・教室の再開めざし・・・・・・

しかしながら、2000年9月をもって、とうとう、このような個人的応援だけを頼りにつないできた日本語教室にひとまず区切りをつけることにしました。第三世界でこのような活動を考える時、経済問題は避けて通れない問題だ。この限界をのりこえるべく、1,2年後のクスコでの日本語教室の再開を目指して、日本でより広く協力を呼びかけ、協力体制をつくるべく、ついに日本への一時帰国を決意しました。

フェスティバルの開催・・・日本とクスコの友情の掛け橋・・・

実は最後の数ヶ月は、様々な困難をくぐりぬけてきた私と私の生徒が日本人としての、ペルー人としてのそれぞれの立場にお互いに耳を澄ましながら、よりいっそうつながりを深めていった時期でもありました。
『貧すれば鈍する』という状況は、地球のどこにでもあるのでしょうか。私もぎりぎりの背水の陣のただなかのこと、クラスで生徒が約束を守ってくれないなど、目に余ることが続いたある日のこと、私は自分の困窮を生徒達に腹の底から訴えました。と同時に、生徒同士の、すなわちペルー人同士の、横のつながりが余りに希薄であることの、日頃から感じていた切実な疑問を投げかけました。すると生徒達は、問題の解決のために私と一緒にできることをさがしだそうと、初めて生徒だけで話し合いを持ったのです。
紆余曲折はあったものの、そのこたえの一つが、日本語教室の宣伝もたねた『日本とクスコの友情の掛け橋』と題したフェスティバルの開催でした。この催しを準備するプロセスで、日本の友人から送られてきた水俣展のパンフレットを生かして、急きょ公害の原点、水俣など日本社会がかかえる矛盾を学習したり、クイズ用に日本とペルーの素朴で大きなちがいを探したりするなど、折り紙や書道だけに終わらない日本の素顔を、希望も絶望も含めて考え伝える努力もしました。
『プエンテの会』は、このときのタイトル「友情の『掛け橋』」を意味するスペイン語からとりました。

ついに自主学習グループがんばろうの誕生

それから、私が帰国するまで週一回続けた生徒有志の集まりでは、なぜ日本語を勉強したいのか、なぜこれからも勉強したいのかが回を重ねて話し合われました.そうして徐々に、確実に、地球に生きる同じ人間同士としての絆を深めつつ、日本語だけに終わらない人間としての大切な何かを、お互いにたぐりよせてきました。そうやって、話し合いを重ねた生徒達の有志6人がだした結論は、私のクラスの再開を待つための自主学習グループの結成でした。簡単とは言えない状況の中で、ここまで信頼関係を深められたのはクスコではまれに見ることで、このグループには、クラスの机や椅子、テレビやビデオ、そして日本語教材を大きなダンボール一箱ごと託すことにしました。

2006年9月15日、二名の教師を派遣しました。
米谷恵子ともう一人の先生は現在クスコ市のグループで活躍中。
緊急レポートは、クスコからへ






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